やはり途切れてしまったブログを恥を忍んで100年振りに更新。
この夏は、アメリカの作曲家ハリー・パーチの音楽劇「Delusion
of the fury」のリハーサルと本番に明け暮れていました。
この音楽劇は、北西ドイツ最大の芸術祭ルーアトリエンナーレ、ケルンのアンサンブル・ムジークファブリック、演出家ハイナー・ゲッベルスによる構想を含め2年以上費やされた大プロジェクトです。
1901年に生まれ、1974年に亡くなったハリー・パーチは、幼少よりピアノなどの器楽に親しみ、音楽大学で作曲を勉強したりしていたそうです。しかし、道ばたなどで聞こえて来る人々の声や、物売りの歌にも似た呼び声に自分の音楽の方向性を見いだしたパーチは、その微妙な音高を用いて彼自身の音楽を実現するには、既存の12音平均率では不可能であるという結論に至り、1オクターブが43音となる音階を考え出したということです。
パーチの音楽というのは、複雑な音律構造とは裏腹に、リズムや音楽構成が非常に単純です。ポップ音楽のようなグルーブ感、明快なリズムの繰り返しも多用されています。聴き方によってはあまりに単純で少し滑稽に感じてしまうかもしれませんし、複雑な現代音楽を好む聴衆であれば「こんなものは現代音楽ではない」と怒り出してしまうかもしれません。しかし、パーチが「今生きている自分が書く、今の時代の音楽」というのを深く追求した成果ではある事は明白であり、その徹底ぶりには感心せざるを得ません。(もしかして彼の音律・音階、そして楽器製作のこだわりとリズムに対するこだわりには、多少の比重差があったかもしれませんが、、、)また自作楽器を用いる作曲家はいますが、ここまで大量の楽器を作ってしまった人物は、あまりいないのではないのでしょうか。
このパーチ音楽の体験後、私は音楽もしくは作曲における楽器選択の重要さ・難しさを考える事が多くなりました。
楽器というのは、それぞれが異なる出自を持ち、人種、歴史的背景、宗教、特定の音楽ジャンルなどと密接に繋がっています。器楽作品というのはこの世に数えられない程、沢山ありますが、その作品が新しい作品であればあるほど、その作品そのものと楽器独自のキャラクターの関係性が薄くなり、時として、作品の音楽的意図に全く異なる効果をもたらす可能性もあるかもしれません。
私達打楽器奏者は、時として任意に楽器を選択しなくてはならない場合が楽曲によってはありますが、どうしても音色選びに集中してしまいがちです。しかし音色以外の様々な視点からその楽器を検証し、その作品の音楽表現手段として適しているものかと判断する事が重要である事を忘れてはなりません。
そういえば、私はこんな体験をしたことがあります。
アルゼンチン人の作曲家マウリチオ・カーゲルが非西洋楽器のために書いた「エキゾティカ」という作品があります。ある演奏会で、この曲の一部分にフラメンコカスタネットを使用した奏者がいたのですが、私は音色にも見た目にも違和感を感じ、その後コンサート中ずっと、私が感じた違和感は何かとずっと考えてしまいました。
スペインは西洋ではないのか、私が気になったのはその音色か、それとも見た目なのか。カスタネットのような楽器は、実は西洋以外に全く存在しなかったのか。
30分の作品中、3分程登場したカスタネットによって全体の統一感が揺らいだように感じた事が非常に印象的でした。
カーゲルの思った非西洋楽器というのもさらに調べてみなくてはなりませんが、とにかく私が改めて感じたのは、たった一つの小さな打楽器が持つ音楽全体の印象に対する影響力です。また非西洋楽器というのは西洋楽器に比べて非常に生息範囲も広く、非西洋をどこからするかと決定するのも難しい問題です。その条件下でカーゲルが表現したかったものは何なのでしょうか。
ちなみに当時、なぜカスタネットを選択したかとその奏者に聞いた所、「好きで得意にしている楽器だから」という答えしかえられませんでした。もしかしてもっとその方に詳しく話を聞く事ができたならば、その背景にはもっと深い理由があるのかもしれません。
このように音楽と楽器の関係性を改めて考えた上で、ハリー・パーチの音楽を改めて聞くと、その音楽的統一感はさすがと言うべきものでした。
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